しがない内科医の雑念

底辺医がなんか語っとる

人間の成熟形態から考えること

100歳近くてそろそろ独居もきついからと施設入所になった高齢女性を診た。聞くと、施設は暮らしやすいけど、あえて言えばやることがなくて困っているという。テレビを見るか本を読む(この歳で!)しかないと。特に症状はないし、トイレ歩行も自立している。
この歳でこれだけ元気な人は珍しい(男性ではまずいないと思う)。これまでなんとか出来てたとはいえ、もう家事から解放してあげてもいいだろう。もう明らかに、いまこの人がすべきことなんて無いということが感じられた。そして退屈が残った。

元来、人間にはすべきことなど無い。あるのはただ生きるための活動のみ。
だが現代社会では、若く元気なうちは以下のABいずれかに労働力を提供する。
仕事A(人間の生活に必須):食品・住宅・衣類の生産から販売、介護・医療など
仕事B(上記以外の全部):例えば娯楽、教育、金融、高級品・サービス、その他諸々
そして働けなくなったら(もしくは一定の年齢になったら)、主に誰かの仕事A労働に頼り、他人の労働を享受するのみとなり、死ぬまで生きる。
#子供の頃は仕事Aの方が重要と思っていたけど案外、うまくいくと仕事Bの方がよりお金を稼げる。現代の先進国は十分豊かになったので、最低限生きてゆくのに必要な仕事Aは重要視されないようだ。医療もいずれ“物好きな誰かが仕方なくやるつまらない作業”になるのか。

人間の最終形態は寝たきりと死だろうけど、あまり病気せず歳をとるとこの人のように成熟形態となり労働を免除される。お金が十分あれば、自分は敢えて労働力を提供せず、他人の労働を享受するのみで暮らすという選択肢もある。お金がなくても病気とかその他の状況次第では労働が免除されうる(生活保護)けど、その場合生活は地味で最低限のものになる(例外あり)。

労働力人口は労働を提供しつつ他人の労働生産物を享受し、非労働力人口(と子供)は享受するのみである。資本主義社会では全員が後者を目指さないような価値観(勤勉は美徳、上昇志向、贅沢消費、拝金主義とか)が奨励されている。
それとは逆に、多くの人が最低限の生活レベルに満足してしまうと仕事Bは減り、労働力が仕事Aに集中するので人々の総労働量はもっと少なくなるだろう。例えば週2〜3日程度の労働でみんな慎ましく暮らしてゆける世界になりそう(共産・社会主義理想社会か)。
そうして労働が減ったところで、今度はやることがない。退屈が生じる。それが人間の性質。上記、十分高齢の成熟形態(の脳)でも退屈しているんだから、もっと若ければ尚更である。となると仕事Bの商品を消費したくなる。つまり娯楽や贅沢品のために余計に働くようになり、仕事Bも活性化する。という人間の本性に基づいた資本主義のスパイラル。

だったけど、最近はインターネットでお金を使わず時間のみ浪費できるようになったので(特定のコミュニティ・掲示板、無課金オンラインゲームやYoutubeで一生飽きなそう)、若い人を中心にミニマリスト・働かない・FIREみたいになる流れが出てきている。医者とか高給サラリーマン(勤務医もこれに含まれるが)ならがんばって働いて節約すれば40〜50代までに1億円くらい資産を貯め込める人もいるので(相続含む)、後は最低限の生活とネットで一生退屈しないかもしれない(参考・内山直医師の本。彼はもっと活動的だが)。働きたくなければこういうのも可能。一方、働きたければどうぞ、せっせと働いてお金儲けして贅沢したり、クリニックを大きくしたり、院長や教授になって、つかの間の全盛時代を楽しめばいい。ただそれが成熟形態とは思えない。そうした活動は基本的に自己満足で、いずれ老いて質が下がってしまう一時的なものだから。

何しててもしてなくても最後は全員、良くて成熟形態(テレビ見て生きてるだけ。やれればネット程度も。積極的活動をしない・できない)でしばらく安定、病気でもしたらすぐ最終形態(寝たきりで施設入所、数ヶ月から数年で肺炎で臨終)になるんで、何をしても結局同じ。まともな医者なら、絶対病気にならない方法なんて無いとわかってるはずなので、健康にも成功にも確実性や永続性は期待できない。

#価値観は人それぞれ(唯一絶対的に正しい価値観を主張するならば、私はそれを積極的に否定したい)──働きたいやつは働くし、そうでないやつは働かない。自分がやりたいことをする・やりたくないことはしない。それだけ。だからこのように、自他の活動をあれこれ検討しても結論は出てこない。ただみんな、興味を追いかけ退屈に追われる一生。個人的にはそこから抜け出すことに興味がある。