しがない内科医の雑念

底辺医がなんか語っとる

若い時は無駄な研究とかした方がいいよ

一般に、医者は忙しいというイメージは浸透しており、暇っていうとオカシイと思われる。が、自分は明らかに暇だ。実働3時間程度(職場には9時間以上拘束されるけど)で土日は休みで当直も無いから、読書も飽きつつある――この環境で1か月も経ってないのに(たまたま、今日は5時間程度は働いた)。自由かというとそうでもない、最低限の事務的会話のみで、3m四方の狭い診察室にほぼ1日中いるわけで、できることは若干のPCとスマホと読書くらい。楽しくはないが特別困ったこともない。

たまに大学の情報が入ると、同期や若いのが講師やら何やら肩書を得てて、前回も書いたが置いてかれた感がある。これが妬み(ねたみ・相手を憎らしく思う)とか、嫉み(そねみ・自分に対して腹立たしく感じる)なのか。いや、相手に対しては何とも思わなく、よくやるなぁ、元気だねぇ、そこまでして何を求めているんだろう、って感じ。自分はそういうの(大学での業務や研究活動)がやりたくないから逃げて現状なわけで、実に何の問題もないけど、自分はまだ、努力やら実績やら実力(は自信ない。地頭はそれほどでないと実感している)と肩書やら地位が相関するような、勘違いをしている――もちろん、現実世界では有意な相関はない――から、違和感を感じてしまう。些細ではあるが、自分がこれまで積んできた専門的経験やら業績が無駄になる、サンクコスト(sunk cost,埋没費用。参考・この世で一番おもしろいミクロ経済学)になってしまうのを認めたくない(単にセコいだけだが)。ということは、これまで必死で書いた論文だとかは、純粋に自分自身の学問的興味でやっていたことではなく、少なくとも一部は、何らかの職業的地位を得んとする投資だったわけで、探求心としては不純であり(論文のための論文)、専門を捨てた今となっては職位への投資としても失敗だったと言わざるを得ない。損切り後の未練。もちろん、純粋な学問的興味でなく立場上の必要から研究活動をしている医師も多いだろう。そういう人が、いずれ大学やらの地位を得るならそれは正当な投資だろうが、そうでない場合には無駄である、ということをここで初めて実感した。もちろん最初からわかってはいたが、自分がなんとなく大学院に入った頃は(今もか)大学の講師以上らは論文至上主義で、とにかく何かやって(やらなくても!)何か書くべし、と洗脳していたのです。だから深く考えず、研究・論文は医師として最も正当な行為と思ってやっていた。そのうち薄々、あれ?何で「最も正当な行為」がそれほど楽しくなくて、やってもやってもその狭い専門分野でさえ有名になるわけでもなく、これといった良い事もない(むしろ仕事が増えるだけ)のかな?というところから、意味無いじゃん→辞めよう、と目覚めてしまった。
上司らに対してもちろん恨みはないし(かといって感謝もあまりない)、これまでの知識・経験を今後そのまま生かすことはできないけど、一連の貴重な経験を得られたことに納得すべきなんだろう、とは思う。
なにせ、暇だと余計な事を考え始めるんだ(小人閑居して不善をなす)