しがない内科医の雑念

底辺医がなんか語っとる

気づいたら野良医者

相変わらず場末のつぶれかけ病院でつまらない仕事を続けている。半ば承知で異動して4年くらいは経つけれども、1年くらいで「これ続くかなぁ?つまんな過ぎだろ」と思ってたけどなんとかなってはいる。仕事中スマホさえ使えれば…
9時から5時までびっちり患者が入ってたら、そんな余計なことを考える暇もなく、なんか仕事した気分になって毎日疲れたなーって帰るのだろうか。閑職に慣れた今となっては、そんなに忙しかったらやってられるかという気になる。たまにバイトをすると、やり手のチェーンでは健診でもひっきりなしに”お客様”が来て、こちらは水飲んだりトイレ行く暇もないほどだったりするが、あれ毎日はきついな。慣れれば適当に間引いてやるのだろうか、常勤がバイトをフルに働かせて。

かつての後輩だか部下だかが偉くなったり、偉くなるために異動したというのを小耳に挟むと、もうすっかり悔しいなんて気持ちは起こらないけど、「この程度で講師かよ」「准教授かよ」「まさか教授にはならないだろうな」とは思う。「俺はやる気ないけど能力的には負けてない」ってわけだ。全くこうした根拠のない自信はどこから湧くのか。そういうささやかなプライドがあるから、現実的な能力も精神レベルも低いのに精神が自壊しないで生きていられるのか。
自分の場合、退職前に形式的に一瞬講師にしてもらえるほどの従順さも貢献もタイミングもなかったので、肩書き的にはほぼゼロである。だが市中に出てみれば、それどころか専門医一つ持ってなくてやる気も能力も低い医者はゴロゴロいて、困っている様子もない。出世さえ狙わなければそんなもんだろう。幸いまだ内科医の働き口は多い。が歳をとるとやっぱり雇ってくれなくなるのだろうか(郊外〜地方というブルーオーシャンに期待)。

大学の安月給で長時間労働(これだけは耐えられないのだ)と、人間関係と研究や雑用のストレスに耐えてる医者はすごい。自分は絶対に無理なので、そういう人が偉くなっても悔しくないし負い目も感じない。単純にすごいですねと思う。自分が100mを10秒で走れないことに悔しさも負い目も感じないのと同じ。自分もかつて大学にいて「医者は研究しないと意味がない」とか思ってた時とは180度違う気持ちになった。ピンと張ってたイトが切れてしまったかのよう。彼らも何らかのきっかけがあれば自分のようになってしまうのか、それとも根っからの仕事中毒か。確かに後者の医者は多い。論文の読み書きや研究や教育がライフワークっていう人もたくさんいた。そういう人にとっては研究生活はストレスではないのだろう。好きでやってるんだから、必ずしも頑張り屋さんってわけでもない(大抵そうだろうが。また、頑張り屋さんだから良いってわけでもない。価値観の個人差)。自分も研究活動に少しの面白さは感じていたけど、それを帳消しにして余りある人間関係や学会準備や雑務や論文書きのストレスがあった。あと、研究自体に飽きたのもある。業界に大きな影響を与えるような仕事が、自分からは絶対に出てこないだろう、だからやっても意味がないという確信が常にあった。悪く言えば自己肯定感が低い、良く言えば自分の客観的位置がわかっていた(今時、三流大の貧乏研究室から世界的業績は生まれない)。研究のための研究(研究それ自体が目的であって、例えばある病気を治すことに多分つながらないけど多少予算もらって研究していることにはなるというような)の虚しさを感じ、しかしそれを覆すほどのやる気も能力もない自分にとって、研究現場からの撤退はごく自然かつ正当で合理的に思える。
それに気づいてなお大学に残ってる人はすごい。気づかないで残っている人は、幸いである。(言い訳がましいけど、市中病院の医者を見下す大学の若い医者って定番)

#かといって臨床をしっかりやる(救急やら急性期病院)気もない。給料が大差ないなら楽な方がいいに決まっている。
なんて合理的なダメ医者だろう。サイコパス──というほど賢くも割り切ってもない。